父が認知症になって2年近くになります。

皆様、ご無沙汰しております。
ブログ更新が怠っているのにもかかわらず、ご訪問いただきありがとうございました。

しばらく、というか、何度も繰り返す波のような、どうしていいのかわからぬ気持ちに
向き合い、暮らしておりました。

ここに、書きたい、と思っていた父の認知症の件も
FBなどに書くと、従兄弟や親せきが知ることとなり、それを耳にした母が、インターネットはやめてほしいと
いうほどに、母は不安を感じました。それでも、いまの父の状態をメモし、いつか、人のお役にたてばいいと
思う気持ちと、わたしがこのように表に出して書くという行為に、なにかがあわない、状態でした。

このTree of lifeは、ほとんど知人、親戚にしられることのない存在である、とわかっていますが
それでも、父のことをかくことで、今度は、本当に知られてしまう恐怖感。

でも、今、香港に住んでいるShimiさんという植物治療家の方とアロマオイルの件にたいして、話しているうちに
ここに父のことを書いてほしい、とおっしゃってくださいました。

今日から、しばらく、綴っていきたいと思います。
また、夏前には、オランダにある認知症施設を訪問することになりました。これもまたレポートさせて頂きます。

さて、昨年、すこし書いた父の件ですが、
アルツハイマーと診断が下り、それにたいしての大きな不安感が押し寄せ、数か月は涙がとまりませんでした。
仕事もうまくいきませんでした。
すべてが空振りして、しんどい。

どうして、こうなるのだろうか、という気持ちと
遠くにいる親不孝を感じ、また、姉妹の気持ちが合わないという、まあ、ありがちな状態にもなりました。

父がおかしくなったのは、それからでした。

病名が告げられ、まず、自動車の運転をやめてほしいと、車を家から話し、免許証を預かりました。

最初は、数か月で車に乗れると信じていた父は、免許証がないことを怒り始め、預かっていた姉にたいして
電話で怒鳴るようになりました。それは一日に数回。次第に最初は張り切っていた姉が、
正面から受け止めすぎたのか、電話をとらなくなりました。

お願い、病気だから、話してあげて、と。

それでも、止まらぬ父の暴言と、免許証がなければ、紛失したことにして、試験場に再交付にいこうとし、
海外からではありましたが、国際電話で、運転免許所に相談しました。まさに、父が、翌日、いくところでした。
事情を理解してくださった担当の人は、窓口に告げ、また、別に連絡先をお知らせしたことから、
父が帰った後に、どうであったか、教えて下さいました。

どうしても、父が運転したいという気持ちを
押さえる、また、あきらめることに家族、親戚と、頭を悩ませ、遠くに離れていても
心配でした。

姉がまいってしまったので
今度はわたしが父の免許証を預かりました。こうすることで、姉のところにまで押し掛けるということは
ないという理由でした。

お父さんごめんなさい、という気持ち。

わたしが預かっていることを知ると、今度は、父はハガキを書いてきました。それも二回。

私が盗んだということで、被害届を出すと書いてあり、
家族から犯罪者がでてもいいのか、という言葉には、病気といえども、やはり、きつい思いをしました。

それから、思いきって電話をしました。

「おまえがもっているのか」といわれたので、はい、というと
送り返せ、というのです。
どうするの、というと、返納する、といったので
返納するのは、わたしが帰ってからでもいいでしょう、というと、とにかく送れと電話口で怒鳴る、

そして、次にかけたときに
「もうおくったか?」ときいてくるので、

おくったよ、国際郵便でパスポートや免許証、クレジットカードはおくったら駄目なんだよ、
盗まれるかもしれないから、でも、おとうさんがどうしてもといったから、おくったからね、
たぶん盗られると思うけどね、わたしは盗られたことがあるから、届くといいね、といいました。

もちろん、1カ月たっても届く訳がありません。

届かない、といいだしたので
盗まれても当たり前、といったでしょう、お父さんが欲しいといったから、おくったからね、
というと、それからなにも言わなくなりました。

が、その半年後に、父自身が、反省すべき出来事が起き
この問題は収束していったようです。

病院の先生は、しばらくするとあきらめる、とおっしゃいましたが、父の場合は、そうではありませんでした。
インターネットで調べると
全国、同じ問題の方が多く、死亡事故も数回、新聞でみることとなりました。

ちなみに家族間の会話で、もし、わたしが父だったら、いわれたくないな、と思った言葉をここに
書いておきます。

お父さんが運転して、誰かを死なせたら、わたしたちも困る。
保険もでない、一家離散で家もなくなる、

と、姉は本人に直接いっていましたし、わたしにもいっていました。
その気持ちもわかりますが、結局は、自分が困る、ということを全面に出し
本人の気持ちに寄りそうという方向性ではありませんでした。

兄弟、姉妹は違ってあたりまえですし、姉は間違えたことはいっていないのです。
しかし、この言葉をきくたびに逆上していたのは父なのです。

そして、田舎暮らしでありますから、車がないと、買いものも時には厳しく。
母が、もう車はいいよね、というと、「自動車がなくて、おまえはいいのか!!!」と怒りだす始末。

でもこの言葉の裏には
老いたとしても、母の買いものに付き合い、一緒にドライブして、手伝うという、
頼ってほしいという、気持の裏返しであったのではないかな、と思います。

様々なことがありましたが
今はすこし症状がすすみ、車のこともいわなくなりました。
リハビリに通うようになり
それでも、リハビリからくる送迎バスにはのりたくないと言い張り、朝、夕、歩いて母が送り迎えを
している状態です。バスにのりたくない、というのは自尊心でしょう。

数年前は、わたしの生き方が受け入れきれなくて、父は怒鳴っていました。どうして
おまえは普通の人と違うのだ、と。
悩み、苦しんだ20代30代でありましたが、その時間もすでに過ぎ去り、
父とはいつか、会話することもなくなるのだ、と、時間の流れをみとめているうちに
過去のいざこざも流れていきました。

病気というものは、不安、苦しみの原因でもありましが、
また、長年の親子の確執を溶かしてくれる、有難いことでもあるのだと
いま、2年近くになりますが、
人生のサイクルの不思議に身をまかせることにしました。





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# by tubaki_hana | 2014-09-28 05:06 | 生命力

旅立った友へ

今朝、典子女王の御婚約内定の発表をみて、朗らかになった日。
その眩しさとは裏腹に、日本にいる友人が旅立ってしまったことを知る。



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30代で発病した彼女のこの数年は抗がん剤治療を受け、病気と闘う日でした。

子供さんも小さかった為、最後、会った時は、小学校に上がるまで生きたいと
それが希望でした。5年先の生存率がわずかの病気。
それが叶うかわからなかったけど、たぶん子供さんは
小学校にあがったはず、延命ができていたことを想います。
いつか人間はこの世を去るのだけど、

やはり旅立ちはさびしい。悲しさより、今は、病と向き合うことに終止符が打たれたことに
すこしの安心感と、ぼんやりといろいろと思いだす午後。


あっと言う間の22年間だったな。
知り合ったのはついさっきだったような気がする、
あっという間に流れた時間。

その間に、結婚、離婚、再婚、出産と忙しい人でした。・

昔、彼女のほうが、先にオランダに遊びにきていて、
「オランダはポリスをぽりちい、っていうの」

「日本っていい国なんだって、戦争で国が無い人がオランダにはいて、普通に路上を歩ける生活が
恵まれているという難民にもあったよ」

などなど、教えてくれたことを懐かしく思い出します。

人の命の長さはそれぞれだけど、
しっかり生きた結果なんだよね。

がんばった彼女にいま、拍手。

お疲れ様でした。









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# by tubaki_hana | 2014-05-28 08:00 | 生命力

誰かの死から学ぶこと


先日からの続きですが、
日曜日、日の出をみて、清々しい気持ちになりました。
夕日とは違う美しさにハッとさせられることも
あり。

友人がすでにこの時、日本で死の淵にいることも気がつかず。

生活、とはそういうものです。

生まれ来る朝、そして夕日が落ちる西に帰る人たちの
中に彼女が入っていったのも運命であったのでしょう。


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わたしは遠方に住んでいることもあり、日本で友人が亡くなっても葬儀にでることは
できません。祖父母の死にも立ちあうことがありませんでした。
死に直接ふれることがない日々、昨年はオランダ人の知人のお母様が老衰で亡くなられてその前に
お見舞いにいくと、まもなく、お別れなんだな、とそういった感覚でおります。
西に帰る人々を見送る予感のする時間はしんみりとさびしく。

死という事は
様々なことをわたしたちに伝えてくれます。
いつかすべて終わりがきますが、
私の人生の中で、だれかの死によって伝わってきたことが2度ありました。

中学時代の塾の先生が、わたしが高校生の時に自死されました。
葬儀がおわってから、家を訪ねると、憔悴した老いたご両親の姿、
実は、一人娘さんであった先生は、優等生で、適齢期を迎え、親が進めるお見合いに気乗りせず
次第に精神を病んでいかれました。そして、ある日、命を絶たれました。

自分の生き様をはっきりさせないと、過保護な両親のもとでは自分がつぶれていくというのを
はっきり自覚した17歳、
私には、両親が過保護すぎるところがあり、それが大きな不安となっていました。そして、この
先生の死から、自分が将来、親にすべてのことを決められるのではないかという恐れ、そして
20代すぐに、自らそこを抜けないと、後悔する人生になると感じ、ほぼ10年かけて、親離れを実行しました。

離れる苦しさは、いまでも覚えていますが、死にいたるよりは楽であります。

そして、きちんと親から離れ、親もまた学習し、お互いの学びとなると、
今度は、両親の老いに対して正面から向き合える状態になれた、と思います。

こういった心の状態になったことは昔のわたしからは考えられないことですし、
スタートは17歳、かれこれ、25年前のことです。ずいぶんと長い旅をしました。

おかげで芯がずれないことで、環境がかわっても変わらない自分でいられることを目標にすることが
できました。

それぞれの生き方、チェンジするきっかけはそれぞれですが
誰かの死がきっかけになることもあり、
いろいろな人たちから伝えられるメッセージの重さを今、感じています。




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# by tubaki_hana | 2014-05-28 06:17 | 生命力